「普通」という単語は使わないほうが良いのかもしれない
X(旧Twitter)にて普通のマステ(マスキングテープ)とはなんぞや、で少し議論があって、
そこには普通の建築や板金などで使う黄無地のマステと、ノートなどの小物を可愛くデコるためのキャラクターやら花やらの柄物マステの画像が並んでいた。
もしあなたが誰かに「普通のマステ買ってきて」と言われたら、何を買うか、である
みんな大好き「普通とはなんぞや」の議題。
うちは旦那が元自動車板金屋で、今も趣味でやるので黄色いマステはよく見かけ、逆に柄物に馴染みがないパターンである。
というか私自身、柄物のマステを何に使えばよいかわからない…
んで、板金塗装なんかのときに「マスクする」為のマスキングテープではなく、柄物のマステを雑貨屋などで初めて見てかわいい!と思って購入している層では柄物のほうがむしろ「普通」なのもわかる。
確かにDIYなり一回も経験がないと柄物マステのほうが普通って思ってしまうよな。
翻って、先日ロピアというコストコを小さくしたようなメガ盛り系巨大スーパーにて卵焼きサンドを購入した際。
買ってきて食べて驚き(正確には驚いたのは旦那であるけど)。
甘い卵焼きがサンドイッチされている。
食文化の違いもまた「普通か、そうでないか」の議論になりやすい。
甘い卵焼き、この辺ではそこまでメジャーじゃなくて…。
自分は単に、味覚がおバカなだけ(汗)
しかもそれをサンドイッチに。
こちらは、どちらかというと出汁味の卵焼きか、ゆで卵を潰してマヨで和えたサンドイッチが主流なのです。
そんなことを通して、ダイバーシティ的な目線を養うという意味でも
もう易易と「普通」という単語は使わないほうが良いのかもしれない、と思った。
「普通」というのは自分の生い立ちや与えられた身体の状況(性別、障害、人種etc)に影響されて育った基準にすぎないわけで。
1000人いたら1000通りの普通がある。
そのくらい普通って普通じゃないよな、と思ってみたりする。